「発達障害」というラベリングにとらわれない

最近、興味深い対談を見つけた。

それは、フリーアナウンサーの小島慶子氏と都立大学教授の宮台真司氏の対談である。

つい先日、新・女子校という選択という本で、
小島慶子氏のインタビューの感想を書いたばかりだった。

この本「新・女子校という選択」に掲載されたインタビューで、
中高時代は問題児だったと小島氏は語っていた。

この対談を読んで、小島氏がADHDを公表しているのを初めて知った。

小島氏いわく、
診断名を公表してから、
「小島慶子」という固有名詞ではなく、
「発達障害の小島慶子さん」と扱われるようになり、
小島氏の行動をみて「こういうところがADHDなんですね」と言われるようになったそうだ。

診断名を公表することで、
その人自身を見るのではなく、
その人の行動を診断名に当てはめる人が増える。

「診断名を公表すると、診断名が独り歩きして、その人自身をみなくなる」
のは診断名を公表するデメリットだと思う。

だからこそ我が家の長男は診断を受けていない。
長男は元気で毎日学校に通っている。診断の必要性は感じない。

もし診断を受けて発達障害だと公表すれば、
上述の小島氏と同じように、
周りは「〇〇君」という長男本人ではなく、
「発達障害の〇〇君」として接するようになるだろう。

 

学校が窮屈な場所になっている

この対談の質疑応答で、
学校の先生をしていた人が
「10年前と比べて学校現場が昔より秩序を求めるようになっている気がする」
という趣旨の質問をしていた。

私もそう感じる。

長男が小学校に入学する前のほうが、
学校現場はいわゆる「問題児」について大らかに構えていた。
「こういう子もいるよね」というふうに。

今は不登校にせよ素行不良児にせよ、
その子ども本人に原因を求めるようになっている。

学校現場には「専門家」という人たちがどんどん入り込んでいる。

専門家と呼ばれる人たちが学校内を見回り、
問題行動を起こす子どもは「困り感がある」という理由で、
専門家と教師の間で対応を協議する。

専門家は、時には精神科医だったりする。

学校の先生が精神科医にこうだと言われれば、
学校の先生はそういうものだと思うだろう。

そして問題行動があれば、
「子ども側に発達の偏りがあるから問題行動が起きる」
というように、専門家と呼ばれる人たちが問題行動の原因をまず子ども側に探す。

単に、学校のやり方が子どもに合わない場合だってあるはずだが、
まずは子どもに原因を求める。

だから学校生活がどんどん窮屈になっているんじゃないかと思う。

学校の先生からすれば、
専門家がいたほうが対応を相談できるから良いかもしれない。

でもこどもの側からすれば、
常に監視されているようで窮屈だと感じる子どもはいるはずだ。

現に長男も「監視されているような気がする」と話していたことがあるのだ。

 

ラベリングの弊害

以前にも書いたが、
長男の場合、幸いなことに、
小学校入学前に通った療育機関が、
診断名によるラベリングに慎重なスタンスだった。

長男が通っていた療育機関は、
診断名や検査結果を公表した場合、
診断名や検査結果が独り歩きするデメリットを
重く見ていたのだ。

でも、特別支援教育が学校現場に根を張った今は、
そうはいかないのだろう。

対談の中で小島慶子氏が話していたように、
特別支援教育がここまでシステム化してしまったら、
学校教育の中で特別支援教育というシステムを無視するわけにはいかないし、
かといって、
今まで私が経験してきたことからして、
学校が変わるなんてことは到底期待できない。

だから「学校以外の場所で子どもを伸ばしていくしかない」んだろう、やっぱり。

「世の中にはいろんな人がいる」

本当に、それでいいのだ。

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