文藝春秋2020年1月号
著者:藤原正彦
タイトル:英語教育が国を滅ぼす
「英語教育」が国を滅ぼす
読もうと思いつつ読むタイミングを失っていた藤原正彦先生の提言。
文藝春秋2020年1月号に掲載されている。
昨年大騒ぎになった大学入試の英語民間試験の導入についても触れられている。
この論文は、昨今の大学入試における民間英語試験の導入の際の混乱を含め、英語教育の推進について一般向けに分かりやすく書かれている。
この論文を読めば、日本の英語教育が今置かれている状況についておおよそ理解できると思う。
一言でいうと、英語教育の推進に関して藤原先生は真っ向から反対だ。
「現在の日本の英語教育の方向性」を知りたい人は本論文を読むことをお勧めする。
「英語教育」が国を滅ぼすを読んで思ったこと
1.国語算数を疎かにしてまで英語教育を進める必要はない
藤原先生は、他の教科を押しのいてまで英語教育を進める必要はないと断言する。
確かにその通りだ。
他の教科の授業時間を削減してまで英語教育を進める必要はない。
国語力が低ければ英語力だって伸びないし、数学や理科の授業を削ってまで外国語(英語)をやるものではない。
なるほどと思ったのは、日本のノーベル賞科学者のほぼすべてが、小学校から大学院まで日本の学校に通い、科学の初歩から最先端までを日本語で学び研究してノーベル賞に至ったという点が紹介されていることだ。
つまり、独創性が高い研究をするには英語は必要ないということだ。
だから、わざわざ英語で大学の授業をするなんて馬鹿げたことかもしれない。
大学側が英語で授業をしようとするのは、学生のためではなくて、少子化による学生減を補うために留学生を受け入れたいからだろう。
大学の経営的理由のために英語で授業するなんて、日本人の学生が日本語で思考することを阻害し、独創性をつぶしているようなものだ。
2.「グローバル人材」と経済界の介入
藤原先生がおっしゃるように、英語教育といっても国民の多くは「英語が自由に操れたらいいなあ」という程度の認識だろう。
「グローバル人材の育成」はそもそも経済界の要請なのに、小学校から大学までが一斉に「グローバル人材」を唱和している、と藤原先生は嘆く。
現在、日本の教育に経済界が深く介入している。
内政を決定する最強力な会議のメンバーのほとんどは、経済人と、新自由主義に染まったアメリカ帰りのエコノミストばかりである。
だいぶ前から経済界が日本の教育に介入していることは、以前、保育園施策について書いた記事(本記事の最後に列記する)でも触れた。
保育園から大学まですべての教育施策に経済界と新自由主義の学者が介入しているのだ。
日本の教育界がそういう状況に置かれていることを保護者として認識しておいたほうがいい。
藤原先生は『「人間を育てる」が教育の目的なのに「産業競争力の強化」が最大の目標になっている』と鋭く糾弾する。
「教育とは何か」という本質的な問題には目は向けられず、企業人材として求められる「英語・IT・プレゼンなどの小手先の技術が上手な人材」の育成機関に成り下がってしまっているのが日本の教育機関の現状なのだろうか。
3.日本語と創造性
なるほどと思った点は、フィールズ賞を受賞した小平邦彦先生がかつて「日本語は数学を研究するのに有利だ」と言われていたと紹介されている点だ。
藤原先生によれば、小平邦彦先生は「日本語の含みがもつ曖昧さが、思考に幅をもたせ創造性の飛躍を許してくれる」と話していたそうである。
創造性の高い研究をするにはまず「母語で考える」ことがなにより重要だと藤原先生は説く。
「英語よりもまず国語の勉強が大切」だと改めて思った。
4.公平とは何だろう?
藤原先生の論文によると、日本では同じ試験を課すこと=「公平」だが、英国ではそうでないようだ。
仮に、年間500万もの学費がかかるパブリックスクール出身の生徒が「200点」で、公立高校出身の生徒が「192点」ならば、ケンブリッジでは公立高校出身の生徒を選ぶという。
恵まれた環境に居る生徒の「200点」よりも、公立高校出身の生徒の「192点」のほうが潜在能力は上だと判断するからだ。
この話を聞いて、現在の日本の受験制度では同じ内容の試験を受けるという点では公平だが、日本では潜在能力の高さまでは評価していない。
入社試験ならば英国の大学と同様の判断をするかもしれない。でも、日本の入試の場合、公平性を担保するために試験の点数そのものに着目して判断せざるを得ないのだろう。
たとえば、現在、中学受験の上位校の受験で独学で合格する生徒はほとんどいないだろう。
仮に中学受験の上位校受験で独学で合格したのならば、潜在能力は相当高いといえる。
中学受験でも高校受験でも大学受験でも、本人のポテンシャルの高さまではきちんと評価していないことに気づかされる。