「困り感」という言葉

ここ最近、特別支援教育に関わるところで「困り感」という言葉を頻繁に聞くようになってきた。

学校からのお便りや文書でも、特別支援教育に関連する箇所で「困り感」という言葉がよく使われている。

この「困り感」という言葉、私はどうも違和感があるのだ。

 

「困り感」って何だろう

「困り感」という言葉が実際、学校からのお便りでどのような場面で使われているかというと、

「困り感」=特別支援教育に繋げる必要がある

という場面で多く使われている。

「困り感」という言葉は「特別支援の対象であること」をマイルドに表現するための便利な表現である。

「困り感」があれば、すぐにスクールカウンセラーと面談、そして特別支援担当に繋ぐのだろうか。

そもそも「困り感」というのは誰が判断するのだろう。

 

本人は困っていないこともある

ある出来事をどのように受け止めるかは個人差が大きい。

極端な例でいうと、臨月まで妊娠していることにすら気付かない人だって世の中にいるのだ。

それほど人間の感覚には個人差がある。

自分の感覚=他人の感覚と思わないほうがよい。

それに、実際に困っているかどうかは本人の気の持ちようでも変わる。

本人が困っていると周りが勝手に判断して、あれやこれや支援する必要がない場合だってある。

自らにも反省を込める意味で書くが、当の本人が課題として認識しない限り、課題は解消されないことが多い。

これは発達障害者に限らない話だ。

困り感を先回りしてかぎ取って対応するよりも、当の本人が課題として認識するまで本人の成長を待ち、本人に自覚が芽生えてから本人がどうするか考えたほうがいいかもしれない。

たとえば長男を例にとると、長男は字が汚くても当の本人はなんとも思っていない。

なぜなら、長男自身が字をうまく書けるようになりたいと思っていないからだ。

だから字を綺麗に書かなければならない場面では、長男は結構綺麗な字を書いたりする。

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