発達障害という概念の普及がもたらしたもの【長男との12年を振り返る】

ここ10年ほどの間、発達障害との概念が一般社会に普及した。

現在中学2年生の長男が2歳の頃はまだ、
「発達障害」という概念は巷で知られていなかった。

長男のような変わった子どもは当時「ちょっと変わった子」とされていた。

長男が2歳当時は学校や園で発達障害について少しずつ浸透し始めた頃だったが、
習い事や塾では、発達障害についての認識はあまり浸透していなかった。

習い事でお世話になった年配の先生は、
発達障害についての知識は持ち合わせていなかったけれど、
キャリアの長い先生であれば、
変わった子どもを今までたくさんみてきた経験があるので、
長男についても違和感なく受け入れてくれた。

ところが、
発達障害という概念が普及したがために、
長男そのものではなくて「発達障害っぽい〇〇君」という見方をする人が増えてきた。

少し変わっているだけで「発達障害」を持ち出される。
窮屈な世の中になってしまった。

我が家に限っていれば、
「発達障害」という概念の普及はメリットよりもデメリットのほうが大きかった。
今までずっと教育機関と闘ってきたから。

 

長男自身をみてくれる人を探す旅

長男との12年は、
「発達障害っぽい〇〇君」ではなく、
「長男=〇〇君」として見てくれる人を探す旅でもあった。

今までお世話になった習い事の先生方も、
最近始めたピアノ教室の先生(ベテラン)も、
何も臆することなく長男を受け入れてくれた。

今では長男が年齢と経験を重ねて、
知らない人と普通にコミュニケーションが取れるようになっている。

いろいろと試してみて、
キャリアが長い先生の方が、
発達障害という概念がなかった頃から色々な子どもを見てきた経験から、
個性が強い子どもを受け入れてくれる可能性が高いことがわかった。

世の中にはいろいろな人がいるのが当たり前だ。

でも残念ながら、発達障害という概念が広まってからは
子どもを細かく分別して、
変わった子どもを切り出して特別対応をするのが当たり前になってしまった。

変わった子どもだけ特別対応するのが当たり前なのではなく、
どんな子どもでも、
小さいうちはその子にあった特別対応をするのが当たり前。
ただそれだけだ。

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