特別支援教育分野の界隈でよく使われる「困り感」という言葉がある。
「困り感に寄り添うことが常に良いことか」どうか、判断がなかなか難しいと昔から感じてきた。
長男は書字が苦手で、中学に入る頃までは漢字を書くのを嫌がった。
けれども、中学に入学してから書く機会が増えたことで、書字の苦手さが改善されてきたからだ。
詳しいいきさつは夏休みの宿題、終わるに書いた。
困り感に寄り添うならば
たとえば、「漢字が苦手だ」という困り感に寄り添うならば、「書いてまとめるような学習はやらなくても良い」という選択をするか、「書く代わりにタブレットを使用する」という代替手段を選択することになる。
その一方で、子どもは特別な支援を行わなくても発達していく。
たとえば書字の場合、子ども自身が書字が苦手だと思いこんでいても、案外書けるようになっていることもある。
実際、長男がそうだったからだ。
読字が発達すれば、それにつれて書字も発達していくからだ。
園や学校での先生方の対応をみていても同じように感じる。
園や学校で子どもが嫌がることに対して無理強いせずに、やる気になるまで待つのが基本だとは思う。
その一方で、子どもが新しい一歩を踏み出すことに不安を感じて騒いでいることもある。
長男がまさにそういうタイプだ。
ワーワー騒ぐのは真に嫌がっているのではなく、騒ぐことで不安になった心を落ち着けようとしているときもある。そんなときは、さりげなく後ろから背中を押したほうが上手くいくこともある。
子どもが一歩を踏み出せずに躊躇している場合はそっと背中を押してやらせてみるというやり方も、あながち間違いではないという気がしている。