療育の大衆化がもたらしたもの

次男が小学生になりスイミングスクールに通い始めた。

次男をレッスンに送り出したのち、次男がプールで泳いでいるのを横目で見ながらレッスンが終わるのを待つ。

保護者観覧席は送迎の母親でごった返していた。

毎回、レッスンが終わるまでずっとしゃべっている母親たちがいる。

しかしまあ、よくもそんな話すことがあるな、と感心する。

保護者観覧席は密閉空間なので、おしゃべりする母親たちの話はほかの保護者に筒抜け。聞きたくなくても母親同士の話が自然と耳に入ってくる。

 

発達だグレーだという話

昨日も次男をスイミングスクールに送迎した。

昨日も保護者観覧席で母親二人連れが大声で話していた。

よその子のことを「あの子は発達だ、グレーだ」と品評する声が聞こえてくる。

自分は違うと思っているんだろう。

どこまでが「発達」でどこからが「グレー」かなんて、分かりゃしないよ。

厳密に判断したら、人間だれしも「精神疾患」に該当するもんだ。

アンタらみたいに公共の場でおしゃべりが止められないならば、ADHDかもしれないし境界知能かもしれないぞ。

 

療育の一般化

ここ10年で「発達障害」という概念が世の中に浸透し、「療育」がすっかり一般化された。

保護者の間でも我が子を療育に通わせるのは「よくあること」という認識になった。「療育に通わせる=こどもにきちんと目をかけている証拠」みたいな雰囲気すらある。

療育ビジネスが儲かるわけだ。

我が家の長男は療育専門の施設とは早い時期に手を切った。それで良かったと思っている。

療育は「子どものため」だけでなく「保護者の愚痴履き場所」という側面もあるから、療育は一概に否定しない。逆に言うと、愚痴を吐く必要がなくなったときが療育の止め時かもしれない。

療育専門施設と関わっていると、ものの見方が医療っぽくなってしまう。なんでもかんでも「この人は発達障害だからこういうことをする」みたいな発想になってしまう。

療育といってもその内容は千差万別だということは、身をもって体験している。

「うちの子を療育に通わせている」と聞いても、どこに通わせているのか・何をやっているのか、踏み込んで聞かないようにしている。

ただ、公共の場で母親達がよその子のことを平気で発達だグレーだと堂々と品定めするようになったことに驚いたのだ。

長男が小学生の頃は、その手の話は、周りに誰も居ない場所でするものだったぞ。

逆に言えば、ほかの子と少し何か違うことをすれば、母親達から「発達だグレーだ」と認定される世の中になった、というわけだ。

鬱陶しい世の中である。

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