風変わりな長男には、習い事でも塾でも「年配の人」を講師に選んできた。
年配の人というのは、今の40代半ばより上の世代だろうか。
それには理由がある。「発達障害」という概念が世間に浸透していない頃から子どもたちに接してきた人は、少し風変わりな子に対して「発達障害だからこうだ」と決めつけないからだ。
「発達障害」を知ってから世に出てきた先生と、そうでない先生とは、根本的に違う気がしている。
昔から「少し変わった子」というのは存在した。
発達障害という概念が普及する前は、少し変わった子に対して個別対応でいろいろと工夫して対応していたと思う。
以前は「その子の本質は何だろうか」について思考を巡らせていた。
それが発達障害という概念が普及した結果、思考停止になり「発達障害」ありきになってしまった。
少し変わったことをすれば「発達障害」とレッテルを貼られて終わり、が現代である。
ある子どもを観察するとき、「発達障害フィルター」に引っかかるか引っかからないかで、自ずと、その子どもの発達障害の有無を判定している自分がいることに気づく。
これは結構、恐ろしいことだ。
ところが年月が経ち、発達障害という概念が広まる前から活動していた指導者が少しずつ減ってきた。
長男が高校生になり、長くお付き合いしていた習い事の年配の先生が引退され、次男の習い事には若い先生を探す必要が出てきた。
若い世代の先生は「発達障害という知識を先に知ってから現場に立っている」人たちである。
こういう若い世代の先生と上手くつきあっていく方法を模索しなければならない時代になった。